horumo’s blog

心理学・心理術の世界

組織(チーム)の理想は小学校にある

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<目次>

 

 

1.チームだからこそアイデアが生まれる

個人の喜びはともかく、今日の会社で最も求められているのが「アイデア」であることは間違いないです。それには、個人の資質や能力に依存するより、人と人とが関わって新しい付加価値を生み出すのが最も効率的です。

 

お互いの新しい意味が生まれる関係性、すなわち「クリエイティブな関係性」が非常に重要です。

 

組織における本来の目的は、何らかのアイデアを生み出すためにあるのは言うまでもありません。同じ問題意識を持つ者同士が時間と空間を共有することによって、アイデアの”上乗せ”に期待するのが筋です。

 

しかし、日本の会議というのは、その点が圧倒的に軽視されています。むしろアイデアを出した者が全ての責任を負わされるような「黙っていたもの勝ち」の風潮すらあります

 

あるいは、会議に限らず、日常の業務にしても、最近は人と人とが直接関わる機会が減っているようです。同僚の座る隣席との間をパーティションで区切っている職場や大学の研究室も多いです。これではとても「クリエイティブな関係性」は生まれにくいでしょう。

 

小学校ではドッチボールや習い事を経験してチームワークを学び、中学校では部活動を通じてともに努力することを学びます。そして共同で何かの成果を得た時、個人プレーでは味わえないような歓喜を知ります。大げさにいえば、これこそが生きる活力になるのではないでしょうか?

 

実際、世の中で、「成功している」と評価されるチームは、例外なく活気があります。メンバーが萎縮したり、逆にだらけたりしているチームでは、いいアイデアが生まれるはずもありません。

 

拍手やハイタッチまで励行しているかどうかはわかりませんが、誰もが意見を出し合っているからこそお互いの意識が高まり、相乗効果でチームとしての機能が高まるのではないでしょうか?

 

 

2.人が集まっただけではチームではない

そもそも「チーム」とはなんでしょうか?単に人数が集まっただけの集団は「チーム」とは言えません。

 

例えば、あるプロジェクトのメンバーが初めて招集された段階などがそれにあたります。頭数は揃っていても、目標や意思はバラバラ、互いの性格や腹の中も分からないのであっては、チームとして機能しないのは当たり前です。

 

重要なのは、そこからチームとしてまとまっていくプロセスにあります。

 

チームスポーツの場合、最初はバラバラでも、共に厳しい練習を乗り越えたり、惨敗や惜敗を喫したりすることで次第に団結が生まれてくることはよくあります。これは部活を経験したことある人なら思い当たるふしがあるのではないでしょうか?

 

大前提であるのはメンバー全員が当事者意識を持つことという事です。チームには「推進力」というものが存在します。ルーティーンな仕事だけではなく、簡単な仕事を素早く処理し、新しいアイデアを次々に生み出すような力です。

 

学校のクラスを一つのチームだとすれば、授業の進み具合はクラスごとに差が出てきます。授業を推進するのは先生の役割だと思われがですが、いくら先生が熱血でも、生徒が聞く耳をもたなければ授業は進みません。

 

授業の場合、生徒に聞く姿勢をつくらせることも含めて先生の役割ともいえるでしょう。

 

しかし、企業組織なら上司がそこまで責任を負う必要は必ずしもありません。お金を払って授業を聞いている生徒とは違い、社会人はお金をもらう側なのだから、何らかのチームの推進力に貢献するのは当然のことでしょう。

 

たとえ新入社員であってもチームの推進力になることは可能です。経験値が足りない分、とにかくパワーボキャブラリーを前面に出して場を明るくするや、飲み会の準備を買ってでるとか、できることは色々あります。まずは「自分のチームのために何ができるのか」と、常に考える癖をつけるのが第一歩です。

 

あるいはほかのメンバーにしても、「自分は推進力の一助になっているか、それともぶら下がっているだけか」を考える必要があります。やや大げさに言えば、これは大人としても「義務」でもあります。

 

一般に私たちは3つの義務を背負っていると言われています。義務教育を受けさせる義務、納税、そして勤労です。最近は教育と納税も怪しくなってきてはいますが、勤労も義務と感じている人は少なくないかもしれません。

 

それは「お金のために仕方なく働く」ことではなく、所属するチームに貢献することだと考えます。

 

与えられた仕事だけをやって当たり前のことを毎日する、だけでは毎日に変化を感じないし、それこそ何のために仕事をやっているのだろうと自己嫌悪になる人は沢山いることでしょう。それならチームのため、誰かのためを思い、日々成長を感じながら仕事をする方が圧倒的に楽しいしマイナス思考になることも少なくなります。

 

メンバーの一員になり、ある時は追い立てられるように、またある時は恥をかきたくない一心で、さらにある時は周囲に期待されているという自負心が原動力になって、自然にやる気になる。このプロセスに乗ることこそ勤労であり、その集合体がチームの推進力にもなります。

 

協調性もなく、チームが苦手という人は個人的にフリーで仕事をしてみて下さい。

 

仕事というのは人と人が必ずつながっています。人を大切にしない人に仕事が回ってくることなんてありませんから、協調性を学び、チームワークを学び、人から信頼されてからこそ仕事がまわってきます。何もしないあなたに転機なんて訪れません。

 

 

3.組織の理想は小学校にある

私は日本のあらゆる組織の目指すべき理想の姿は、小学校の教室にあると思っています。

 

小学校時代、私たちは共同作業を通じて人と仲良くなれるプロセスを学びました。喧嘩をしたり、そりが合わなかったという関係があるものの、とりあえず折り合いをつけて波風を立てない術も身に付けました。この技術は本来、会社組織でも有効です。

 

ところが、中学校、高校、大学に進むにつれて、私たちはこれらの教えを忘れがちになります。それはある意味では仕方のないことだと思っています。班活動は不活発化または消滅するし、勉強も教科ごとの専門性が増し、意見を出し合う部分は減ります。

 

小学生と中高生では雰囲気がまるで違います。「何かを発表しなさい」というと、小学生は嘘のように手を挙げて発表したがるが、中高生になるととたんに挙げなくなる。主体性という意味では小学生よりも中高生の方が育っているはずだが、恥ずかしさが先にたってしまうらしい。この部分が教育で欠落しているというわけです。

 

一方で中学校からは部活動が本格化します。これが授業の代わりに主体的な活動や仲間意識の発達に役立ってもいいはずですが、指導者によってはそういうことに焦点を当てられな場合もあります。

 

大学教育もその延長にあります。さすがにゼミでは意見交換が求められますが、教育や生活の中心にはなり得ません。大学生は遠慮がちで様子見の構えであることが多いです。

 

実際、私の所属していた研究室のゼミでは一人の発表に対して決まった人しか質問をせず、大半は教授からのアドバイスや意見で終わっていたのが現状です。

 

つまり日本人は、成長するにしたがってコミュニケーション能力が下がり、孤立化しやすくなります。チームでお互い高めあうとか、集団で意思決定するプロセスを忘れたままお大人になってしまうのです。

 

とりわけ苦手としているのが、コミュニケーションの一環としてのディスカッション能力です。欧米からの帰国子女や留学生と、日本の大学生が議論すると、その違いは明白になります。

 

知識量や議論的な思考能力にそんなに大差はないのに、自分意見を積極的に述べ、相手の主張を聞き、それに対して反論をするという技術が欠けているのです。これは、特殊な訓練の有無というより、中学校、高校時代の経験の違いが、そのまま優劣につながっているのでしょう。

 

この点については、日本は欧米から素直に学んだ方がいいでしょう。

 

こういう”劣化”のプロセスは、国際的な今教育評価を見ても顕著です。少し前まで日本の初等教育(小学校教育)の評価は世界一とされていました。単に教科の成績がいいだけではなく、積極的に班活動を行い、皆で決めた目標に向けて一生懸命に努力し、毎日反省会をする姿勢が高く評価されていました。

 

ただ最近は初等教育の評価も下がりつつあります。これには諸々の理由があるでしょうが、最も問題なのは高等教育(大学教育)の評価が極めて低いことにあります。

 

勉強時間では、日本の大学生の勉強時間は小学生以下という統計が出ています。アメリカの大学生とは極端な差が出ています。

 

 

4.最後に

 

私たちはもう一度、かつての初等教育の価値に気づくべきではないでしょうか?

 

それは教育の場としてではありません。

 

組織の在り方としても、見習える点が極めて多いです。